映画でよく見るブルース・リーが行っている格闘術はジークンドーと呼ばれるブルース・リーオリジナルの格闘術になりますが、その基となっているのが詠春拳であると言われています。
ブルース・リーは幼少の頃、父親から太極拳を学んでいました。
しかしながら13歳の頃にケンカに負けた事を契機として、詠春拳を学業しようと葉問(イップマン)と言う宗家に弟子入りをし、本格的に格闘技のワールドへ入りました。
研究熱心だったブルース・リーは北派小林武術もスタディーしていったみたいです、。
詠春拳の創始者は女の人だった事も有るのか、細かくて多彩な手技が特徴となっています。
この武術は実践的な武術として中国武術でも知られていて、ジークンドーのなかにも取り入れられました。
元々は中国内でしか知られていなかった詠春拳ですが、ブルース・リーのお陰でワールド的に知られる武術となったみたいです。
ブルース・リーが世のなかに出て来る前のカンフー映画は手技中心の映画となっていました。
しかしながらブルース・リーは初主演作品「ドラゴン危機一髪」で華麗な足技を見せたのだみたいです。
詠春拳もジークンドーも手技中心の武術で有る為、足技を殆ど見ていなかったようで、映画を見た人はビックリしたみたいです。
ブルース・リーの足技はすさまじく華麗で急いで、迫力がある物でした。
バック蹴りやサイドキックは代表的な足技となり、色んな立地で用いられた様です。
こんなにも影響力が有るなんて、ブルース・リーの偉大さが分かる様な感じがしますよね。
ブルース・リー家の死について
1973年、アスピリンによる過剰反応でブルース・リーは32歳と言う若さでこの世を去っています。
その息子であるブランドン・リーも28歳と言う若さでこの世を去っていた事を知っていたでしょうか。
この2人の死に対して少しばかり挙げてみたいとおもいます。
ブルース・リーの息子、ブランドン・リーは1965年に米国・オークランドにて第1子として出現しました。
その後、香港に行き父親が亡くなる8歳まで過ごしました。
ブルース・リーが生きている間、彼が考案したジークンドーと言う武道の英才教育を受けていた様で、ジークンドーの達人になったいたのは間ギャップなかった事でしょう。
ブルース・リーが亡くなった後、米国に戻ったブランドン・リーは1985年に「ブランドン・リーのカンフー・ファイター」でブラウン管デビューを果たし、翌年には香港で「ファイヤー・ドラゴン」でスクリーンデビュー、1991年に米国映画に出演し、1993年、主演映画になる予定だった映画の録画中のアクシデントで亡くなりました。
そのアクシデントと言うのは銃で撃たれるシーンでの事、小道具で利用していた銃に実弾が入っていて、その弾に撃たれて亡くなってしまったのです。
まさに不慮の事故としか言いようが無いのですが、ブルース・リーが生きていた時、映画のシーンの1つに同じ様なシーンが有ったと言います。
この事から、この事故に関連しては色んな憶測が飛び交った様ですが、真実はどうなのか・・・。
ブルース・リー、ブランドン・リー、2人とも30歳前後と言う若さで亡くなりました。
もし生きていたらこの2人がどんな大大活躍をしていたのかすさまじく気になる所だとおもいます。
ブルース・リーの筋肉
鍛え抜かれたボディーにたくましい筋肉が付いている。
それがブルース・リーのボディーです。
特に背中の筋肉の拡大具合が凄いのです。
ブルース・リーが重大視した筋肉は背中が1番で、そこから腹筋、足の筋肉、腰の筋肉、肩の筋肉、腕の筋肉と言った感じになります。
ここで外れるのが胸筋ですよね。
ブルース・リーは邪魔、パンチスピードが遅くなると言う事を理由にして胸板を厚くする様な筋肉の付け方はしなかったやうです。
ブルース・リーは日々の様にトレーニングをしていたみたいで、腹筋と腕の筋肉に関連しては毎日鍛えていたやうです。
それ以外の部所に対しては毎日じゃなく、1~2日おきに鍛えていたやうです。
ブルース・リーがやっていたのは筋肉を鍛えるだけでは有りません、。
ジークンドーを含めた武術のトレーニングも毎日やっていたみたいです。
ただ、ブルース・リーは筋肉を付けたくてトレーニングをしていた訳じゃないみたいです。
では何故トレーニングをしていたのでしょうか。
一説によるとジークンドーを含めたカンフーの武術を突き詰めようとしたケース筋肉が付いたボディーになってしまったと言う事らしいのです。
筋肉が有るからと言って武術が上手く出来るのかと言うとそうではないと言う事になります。
筋肉は一生懸命付けるのではなく、武術の鍛練によってボディーが武術用にチェンジして来ると言うものなんだみたいです。
ちょっと深いですよね。
ブルース・リーは武術を鍛練したいからこそトレーニングをし、武術に合ったブルース・リー用の筋肉が出来たと言う事かも知れませんね。
ブルース・リー生誕70周年
毎年秋になると東京国際映画祭が開催されるのですが、そのなかでも「アジアの風」部門がトピックを集めている様です。
2010年にはアジア発ワールドスターのブルース・リー生誕70周年と言う事もあり、それを記念してブルース・リーの特集が組まれたみたいです。
上映作品としてはブルース・リーの代表作である1973年公開の『燃えよドラゴン』、1978年公開の『死亡遊戯』等いっぱい上映されました。
ブルース・リーの影響を受けた人達で創り上げた作品も上映されたと言います、。
詠春拳を教えてくれたイップマンに扮してアクロバティック行動を披露したり、ブルース・リーが父親と言う設定のベトナム映画が上映されたりと多彩なラインナップだったらしいです。
BGMには『ドラゴン怒りの鉄拳』の劇中曲を流してみたり、映像を敢えて昔っぽくプロセッシングしたりと分かっているけど良いでしょ、と言う感じにもなっていた様です、。
ブルース・リーの生誕を記念してと言うから元来のブルース・リーの作品だけを上映するのかと感じたら、それは当然の様にちょっとおふざけ的な映画まで、ブルース・リーを崇拝して尊敬して賛辞を送ろうとしている人達の作品が上映されていたのです。
上映側がこれ程ブルース・リーのワールドに浸るのであるのなら、見る側も当然その流れに乗っていきたいとおもいますよね。
それならばブルース・リーの特徴でもあった黄色のトラックスーツを着て、BGMを流し、アチョーと叫びたい物ではないでしょうか。
『ドラゴン危機一髪』について
『ドラゴン危機一髪』と言うブルース・リーが主演した映画が有ります。
作製当時の香港映画で残酷や非現実的なシーンも多々有り、バイオレンス映画特有の創りになっていました。
ブルース・リーが主演と言うのは言え、前半では別の人が主演の扱いをされている様な構成でいたみたいです、。
ちょっと作品としては今一つだった様です。
『ドラゴン危機一髪』はあの大ヒット映画『燃えよドラゴン』が公開された後とあって、第二弾はどんなに凄いんだろうと期待に胸膨らませて待っていた作品でした。
しかしながら見る側の期待と言うのは裏腹に配給会社側では不安事象がいくつかあったみたいです。
何せ、第一弾と比べて共演人も知らなければ、作製も香港だった事、作製年が第一弾と第二弾で逆転している事が挙げられていたみたいです。
しかしながら、この不安は何だったのか大ヒットを記録してブルース・リー評判を安定させる果てになったみたいです。
公開当時はブルース・リーが主演している作品に関連する情報があまり無かったので、違う作品の写真を引用する事も珍しくなかったみたいです。
ブルース・リー自体の情報が少なかったのも有ります。
案外謎に包まれていた人物だったのですね。
でもそれから間もなくしてブルース・リーの特集を組む時期が有り、ブルース・リーの色んな事が明確になったみたいです。
大ヒット映画『燃えよドラゴン』昔の若いブルース・リーが見られる作品としても知られていますので願わくは見てみては如何でしょうかでしょうか。